高崎・和算愛好会 管理人ブログ

高崎市綿貫町の古墳,祝寿碑,赤城神社を見てきました

10月15日に、はじめて昭和病院に行ったが、市内循環バスで行ったので、
予約時間の1時間以上前に着いてしまった。
時間つぶしに、近くを散歩して、古墳,祝寿碑,赤城神社を見てきました。

この近くには、3基の前方後円墳が知られています。
もっとも大きく、整備されている観音山古墳を見て来ました。

まずは、横から見たところです。右側が前方部分、左側が後円墳部分です。
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次は、史跡公園の入口からです。後円墳部分が大きく見えます。
玄室も見学できるようですが、今回は見に行きませんでした。
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手前の道の反対側には、管理学習センターとトイレが有ります。
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簡単では有りますが、整備されている方です。


次は、病院から観音山古墳に来るときに目についた、大きな石碑です。
家の敷地に食い込むように立てられています。この家の先祖に関するものでしょう。
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拡大すると、「雪園翁祝寿碑」と読めます。
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あとで調べると、この碑は五十嵐雪園 通称 理平 の67歳を祝して
門人が建立したものらしい。
初めに、長谷信篤の83歳の書とあるが、(ながたにのぶあつ)は初代京都府知事で
85歳で亡くなっています。
背面に建立した人たち140人~150人の名前が書かれているそうだが、
今回見ませんでした。実際に見るのはかなり難しそうです。

この碑は、『高崎掃苔録-高崎市の寺子屋師匠たち-平成21年(2009)中村茂著』の
岩鼻地区に載っていました。
詳細は、そちらを見て下さい。


帰り道でちょっと寄り道して、赤城神社を見てきました。
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比較的小さな祠ですが、2面の額が掛けられていました。
全く内容は解りませんが、文字が書かれているようです。
算額では無いように思えました。




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拓本の作品展(拓美の会主催)を見てきました。

10月19日、市役所へ証明書をもらいに行ったかえりに、高崎シティギャラリーで、
拓本の展示会を見てきました。
上毛新聞に紹介が載っていたのを思い出したからです。

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3年ほど前に、拓本を採ろうと、インターネットで材料を購入したことが有りました。
結局、やってみてはいませんが。

展示会の拓本は、すばらしいものでした。



倉賀野町下町の閻魔堂を見て来ました。近くに、焼まんじゅう屋さんができていました。

閻魔堂が新しくきれいになったときいていたので、15日に昭和病院へ行った帰りのバスを下町で降りてみました。

『うーむ、立派になったな~』というのが感想です。
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「隠居の思ひつ記」というブログで、2014年3月9日の「例幣使街道 寄道散歩(1)」に古い姿が載っています。
その写真を次に載せると
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グーグルのストリートビューで見ると、2012年8月のお祭りの様子が見られます。
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閻魔堂の向かいに、焼まんじゅう屋さんができていました。
焼まんじゅう(1串4個で135円)を購入して食べてみましたが、けっこううまかった。
日,月,火がお休みで、水,木,金,土は営業しているそうです。営業時間は忘れてしまった。
お店の中もきれいで、お勧めです。
あん入りの焼まんじゅう(1串2個で160円)という道をはずれたものもありましたが、ためしていません。
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ちかぢかもう一度行って、次はあん入りも食べてみようと思います。



大河ドラマ『花燃ゆ』の船津伝次平は、石原良純さんが演ずるそうです。

『花燃ゆ』の舞台が、群馬になった。
船津伝次平の役は、石原良純さんと発表されているので、多少はセリフもあると思うので、楽しみです。

船津伝次平は、群馬県では上毛かるたの「労農船津伝次平(ろうのうふなつでんじべい)」で知られていますが、
安政3年(1856年)に赤城神社に算額(群馬の算額No.82)を奉納しています。
算額は現存していませんが、『数理神篇』下巻に載っています。
また、関流の免許皆伝(八伝)です。

『花燃ゆ』で、和算にまで触れるのは無理かなと思いますが、期待もあります。

しかし、ドラマですよね。
10月11日の第41回「いざ、群馬へ」を見ました。現実とはかなり違いますね。
ドラマの中で、木戸孝允(きどたかよし)が、『群馬の県令となっていただきたい』と言っているが、
それは無いだろう。

楫取素彦(かとりもとひこ)が新政府の役人や県令になったのは、群馬県が初めてではありません。
明治5年(1872年)に 足柄県参事になっています。
明治7年(1874年)に 熊谷県権令になっています。
明治9年(1876年)に (第二次)群馬県の県令になっています。
したがって、「いざ、群馬へ」自体がフィクションです。

群馬県も成り立ちが複雑なので、ドラマでは省略したくなるでしょうね。
明治4年(1871年) 群馬県ができました。この時の権令は青山貞(あおやまただす)です。
明治6年(1873年) 入間県と統合され、熊谷県となり初代県令は河瀬秀治(かわせひでじ)です。
              二代が楫取素彦で、権令で就任し、県令に昇進しています。
明治9年(1876年)8月21日 旧武蔵国の分は埼玉県に統合し、栃木県から三群を編入して
              群馬県(第二次)ができました。高崎が県庁になりました。
              その後県庁は一時的に前橋へ移り、以降は前橋に固定されました。

群馬県が現在と同じ『鶴舞う形(つるまうかたち)』になったのは、第二次群馬県からです。

ドラマでは、楫取素彦を初代群馬県令としていますが、正確には第二次群馬県の初代県令です。
ドラマでは、萩から前橋に馬車で赴任していますが、ここで6~7年タイムスリップしています。

ドラマですから、仕方ないですよね。こんなもんだと思ってドラマは見て下さいね。